新刊“しあわせ”の辿り方「Message1と2」を出版しました 

飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス

「飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス」という概念もあります。

これは、BASHARの「時間」は「静止したひとつの時間のコマ」の連続であるという概念に近いものですが、この人間の考えた「静止した時間のコマ」は、いつまでたっても動き出しません。

ある人が、弓矢で数メートル先の的まで矢を放ったとしましょう。

「矢のコマ」は、無限小へと分割された「瞬間のコマ」の中では常に静止しているということです。

しかし、矢が瞬間という時間の最小単位の中では、常に静止しているとすると、その個々の瞬間の集合体である時間の全体においても、矢は静止したままということになります。

なぜならば、静止したものがいくら数多く集まっても、それは静止したままであり、静止した状態自体からは、いつまでたっても運動という状態が生じることはないからです。

つまり、飛ばしたはずの「矢のコマ」は静止している状態なので、放った先まで、静止したはずの「矢のコマ」は、いつまでたっても動き出さないということになります。

これは定義自体が、「永遠の今」という「静止した時間のコマ」の状態から発展することができません。

「意識の連続性」や宇宙の定数は「変化」というチャネリングメッセージの知識無しで時間の概念に立ち向かっていると、このようなパラドクスに嵌ります。

つまり、これが人間が嵌り込んでいる「飛ぶ矢は飛ばない」というパラドックスです。